吉本ばなな『キッチン』 1989.12.17 文学古い覚書 吉本ばなな『キッチン』 1989年12月17日 吉本ばなな『キッチン』その他を読む。身体の生理感覚がそのまま文章になっている。まあでも読みやすいことはいい事なのだ。感覚的にすっと入っていけることが無条件の前提になり,そこで内容が高度であることで芸術作品としての第一義的な必要条件が成立する。時流に迎合... 詳しくはこちら
P.K.ディック『去年を待ちながら』 1989.05.17 文学古い覚書 P.K.ディック『去年を待ちながら』 1989年5月17日 未来は現在(過去の)選択によって様々な有り様をしめす。また過去も同じ様にパラレルに存在する。今私達の居る世界はその中の一つ(one of them ) であってそれは、私達自身の選択によって選ばれたものだ。この作品でのディックの世界観は〔世... 詳しくはこちら
加納光於1977~1987「版画」 1989.02.22 美術古い覚書 加納光於1977~1987「版画」 加納光於の版画(実物)を始めてみる-この後銀座で油絵も観た-。写真で知っていた『半島状の』や『葡萄弾』・『プトレマイオスシステム』等、主要な作品も殆んど展示されていて、その意味でも嬉しかった。加納光於の版画自体は殆んど本質的に変化していない。ただより洗練され、そして... 詳しくはこちら
ブリューゲル展 1989.02.22 美術古い覚書 ブリューゲル展 この頃あまり外出することに対する欲望が無くなってきた。ブリューゲルの版画を思いだそう としている、そうすると版画は思い出せるがイメージは浮かんでこない。これは問題だ。イメ ージと印象こそが問題なのだ。そこにこうしてノートをとる意味がある。例えば中世の風俗、 ボッシュとの関連等知り... 詳しくはこちら
マーラー:第6交響曲 クロノスカルテット 1989.01.26 音楽古い覚書 マーラー:第6交響曲-マーラー・シリーズ(若杉・都響)於サントリー・ホール- 1989年1月26日 良い演奏だった。でもマーラーの第6交響曲のようなエモーションの固まりのような曲は単なる「良い演奏」だけでは本当の満足は与えられない。マーラーの音楽はオーケストラに全力で立ち向かわせる事を要求する。コン... 詳しくはこちら
『アリア』 於・シネマライズ渋谷 1988.01.05 音楽映画古い覚書 『アリア』 於・シネマライズ渋谷 1988年1月5日(火曜日) プロデューサーのJ.ボイドが十人の監督に依頼して制作したオムニバス映画。実質的には九つのアリアに基づいた短編とそれを繋いでゆく狂言廻しとしての道化師(ジョン・ハート)の部分で構成される。『アリア』を一つのまとまった映画と... 詳しくはこちら
『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』 1986.04.12 音楽映画古い覚書 『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』 1986年4月12日 ナレイションと音楽にドラマの進行を殆ど委ねている割には、音響が良くない、A.V. のAの方が余り良くなかった。多分、劇場のPAの貧弱さも有るのだろう。そのために例えば「マタイ」の冒頭の二重合唱を全曲聞く所では、かなり忍耐が... 詳しくはこちら
ローリー・アンダーソン“ナチュラル・ヒストリー” 1986.04.12 音楽古い覚書 ローリー・アンダーソン“ナチュラル・ヒストリー” 1986年4月12日 初めてこういうコンサートに行ってみたが、色々な意味で考えさせられる物だった。期待していた程、面白くは無かったが、所謂クラシックの演奏会に比べれば、ずっと面白いし(現代音楽の会等は問題外)全てがP.A されていると言うことが逆に非... 詳しくはこちら
ヴィクトル・エリセ『エル・スール』『ミツバチのささやき』 1986.04.11 映画古い覚書 ヴィクトル・エリセ『エル・スール』『ミツバチのささやき』 1986年4月11日 『エル・スール』 (南へ):作家にはそれぞれに自分の表現したい切実なモティーフがある、しかしいうまでもないが、作品にそれがダイレクトに反映したからといって、それによって作品が成功するとは限らない。又作品... 詳しくはこちら
古楽器の意味について 1985.08.31 音楽評論・原稿 古楽器の意味について 初めてヴィオラ・ダ・ガンバの生の演奏を聞いたのは”マタイ受難曲”(それもこの時初めて全 曲を聴いたのだが)の中のバスのアリアのオブリガートで出て来たときだった。この時の記憶 が実はあまりはっきりしていない。むしろぴんとこなかったと言うほうが正しい言い方だろ う。 古めかしい、特徴... 詳しくはこちら
I.ベルイマン『秋のソナタ』 1981.10.26 映画古い覚書 I.ベルイマン『秋のソナタ』 1981年10月26日 日常性の中にあるドラマではなく、日常性という場を劇的空間としての極限にまで引き上げた映画である。 映画はベルイマンにとって必ずしも純粋に映画である必要はない。演劇的な語り口はかなり明瞭で、プロットの進行は戯曲をそのまま映画にしたよ... 詳しくはこちら
現代作曲家の夕べ 1981.08.17 音楽古い覚書 現代作曲家の夕べ 1981年8月17日 結局の所表現の問題に戻ってくる。何をどのように表現するか(したいか)。 本当に作曲したいのか、又曲を書き人に聞かせるということは如何なることなのか。 始めの地点から私は進んで行こうどんなに孤立しようとも、私にとって問題は、他者に対して感じたよう... 詳しくはこちら