I.ベルイマン『秋のソナタ』
I.ベルイマン『秋のソナタ』
1981年10月26日
日常性の中にあるドラマではなく、日常性という場を劇的空間としての極限にまで引き上げた映画である。 映画はベルイマンにとって必ずしも純粋に映画である必要はない。演劇的な語り口はかなり明瞭で、プロットの進行は戯曲をそのまま映画にしたような印象さえうける。その中でベルイマンは-劇場の中では我々は自由に演者達をドラマの進行に応じて選択的に視線の焦点を合わせて行けるのだが-常に神の眼(カメラの眼)に立つことを強いさせる。一見、日常的に観えながら、少し注意してみるとそのようなリアルさにはあまり注意を払っていないことに、むしろそれらを素材としてあつかい、それをによって劇を展開させて行っているのがわかる。母と娘(達)の対立がここまで抽象化され普遍的な劇となるということに注目すべきだ。位相的には単なる二元論がさらにもう一人の妹(脳性マヒの)によって遠近感が与えられて、立体的な構造に(映画の頂点で)なっている。役者の人間としての演技にしても、映画の中で取り扱われる日常の文化の深さ豊かさにしても、我々の社会の大部分の水準はまだここまでは到達していない。